勉強熱心な人ほど「嫌われやすい」生きづらくなってしまう罠
勉強熱心な人ほど陥りやすく
大きな罠があります。
それは、
「頭がいい人ほどコミュ障」
でもお伝えしましたが
「自分が一番、物事を良く知っている」
という無意識から出る行動が原因だから
です。
正しいことを
伝えてようとしているのに
相手が聞く耳を持たない。
なぜなのか?
その理由を解明し、
これを読み終える頃には、
いま抱えているモヤモヤを解決
することができます。
Sponsored Link
周りがバカに見えて見下してしまう
これを読んでいるような
思慮が深い人ほど、
周りの人が何も考えていない
ように見えます。
人は論理的では無い
感情の生き物であることは
わかっているけれど、
理不尽だらけだから、めんどくさい。
人が難しく感じる訳なのです。
いつしか、生きづらさを感じてしまう
原因となっているのです。
頭の中では、
相手の人格まで否定してはダメだ
とわかっていても
と、思って、心の中で見下してしまう。
「心の中で見下す」という意識が
相手に察せられてしまい、
嫌われ、人が離れていくという
ことが多く起こっているのです。
誰でも自分のことをバカにしてくる人と
一緒に居たくはありません。
面倒見が良く、熱心な人ほど、
なぜか人が離れていく、嫌われる
ということが起こるのです。
昔のホリエモンも、
努力家で勉強を沢山してきたからこそ
物事を良く知っていました。
それゆえに、
周りの人が「何も考えていない人」
に見えてしまいイライラして、
子どものように
「バーカ!」などと発言して、
よく口論(喧嘩)になっていたのです。
国家を統べる中枢に居るような人ですら
「何も考えない人」だからこそ、
ガチガチの既得権益に突っかかり、
変えようとしていたのは、
彼自身、
「このままでは、日本が滅ぶ」
と考えていたのかもしれません。
しかし、周りからは、
「バカにしてくる人」
「生活を脅かしてくる人」
「自分のメンツを傷つけてくる人」
としか捉えていないので、
「社会的に潰される」
ということが起きてしまったのです。
相手が求めている時にだけ「知識」は役に立つ
人は他人の力では、
変えることは絶対に出来ません。
人は他人に何かを言われたくない。
からです。
例え正しいことを言ったとしても、
本人の意志で決められないことには
責任が持てないからです。
責任の無い決断には、
結果がどうであれ依存が生じます。
上手くいったとしても
「依存」ゆえに行動したことなので、
それ以上に成功することはありません。
自分で「新たに考える」ということを
しなくなるからです。
失敗したり、上手くいかなかった時は、
それはもう悲惨なことになります。
上手くいかなかった理由を
必ず指摘した相手のせいにします。
以後、その人の話を一切聞かなくなる
ということが起こるのです。
それでも、
人は人生100年の中で
「変わりたい」と思う時が数回あります。
本人の意志で「変わりたい」
と決断した時
その時に役に立ちそうな知識、情報を
提供できれば良いのです。
一番、やってはいけないのが
自分が正しいことを知っているのに、
相手は受け入れない
などと腹を立てることです。
勉強熱心な努力家ほど
最も陥りやすい罠ですので、
氣をつけなければなりません。
他人を変えられるはずも無いのに
何か言いたくなってしまう情動は、
自分で自分のことをコントロールできない
未熟さゆえに起こることなのです。
自分の「ご機嫌」は、
自分で取れるように修行しなければ
なりません。
Sponsored Link
人生の「答え」はどこにも落ちていない
これを書いている杉山自身も
人のことが言えません。
物心ついた頃から
歴史、哲学、国際政治が好きで
手当たり次第、読み漁っていたのです。
それゆえに、
偉そうにしている先生、知人に対して
「生きるとは何か?
それは何の意味があるの?」
「貴方のしていることは、
某カルト教団の教祖様と
同じことですよね?」
などと、
悪気なく質問していたのです。
悪気が無くとも、
相手には「バカにされている」と
思われたのかもしれません。
「そうかもしれないね。
一緒に考えてみよう。」
などと
言えるほど成熟した人徳を
持っているのならば、
偉そうにふるまったりはしません。
たちまち喧嘩になったり、
弾圧の種を自分でバラまいてしまった
ものです。
いつしか、
それがコンプレックスとなり
自分まで、
「私が知っている」といった
偉そうにしていた人となんら変わらない
時期がありました。
今となっても、
親戚のオジサンに
などと、言葉の裏に
「お前も最近の若者の如く
本気で稼ぐこともしないし、
家庭を持つこともしない。
努力しない怠け者だ。」
という見下した顔をされたことがあり、
自分もまた
「これだからメディアに洗脳された
昭和脳の老害は何もわかっちゃいない」
などと、
自分も相手を見下してしまったことが
あります。
このような記事を書いておきながら、
未熟なものです。
もしかすると相手は、
自分の将来を本気で心配していたからこそ
かけた言葉だったのかもしれません。
自由に情報を受け取れるネットが無い
昭和の時代を生き抜ぬき、
導き出された「正しい答え」だったにかも
しれません。
「正しさ」は
国や時代が変わればコロコロ変わります。
だから、
自分の核となる「正しさ」もまた、
コロコロ変わって良いのです。
「信念が無い」という訳では無く、
「正しさ」を変えられる柔軟さは、
自分が
いつまでも「やる気」「生きがい」を失わない
歳など関係の無い、
本当の「若さ」なのです。
勉強で得た「知識」はどうやって使うのか?
本や、哲学書、誰かの話、
それが偉人からの言葉からだとしても、
それらはすべて
「自分にとっての答え」ではありません。
どんな良い知識を得たとしても、
最後は自分の自由意志で
完成させるものだと考えています。
料理に例えたら
スーパーで買ってきた牛肉が
本で読んだり、誰かから聞いてきた
「知識」だとします。
生の牛肉を
食べられないことも無いですが、
おいしくありませんよね。
お腹を壊すことだってあります。
だから、自分で
焼いて塩を振ってみたり
他の材料(知識)も混ぜて
カレーにしてみたり、
肉じゃがを作ってみたり
自分なりに料理して、
おいしく食べられるのです。
得た知識も同じように、
自分で考える時間が必要なのです。
偉大なる○○という人物は、
こう言っていた。
などと、受け入りを話すのは、
誰にでも出来ます。
世の中の情報は、
辞書やウィキペディアだけで
良いはずです。
しかし、
それらは生の牛肉を配っているだけ
に過ぎません。
中身が浅はかで曲げられたとしても
個人ブログやユーチューブが見られるのは、
それぞれが調理し、
形の違う料理を出しているからです。
しかも生の牛肉よりも
多くの人が、おいしく食べられるのです。
知識は、
知識のままでは使えません。
かと言って、
何の材料も無しに料理は作れないように
何の知識も無いのに考えることは出来ません。
だから知識を得ることと、
自分なりにアウトプットすることは、
生涯、続けていかなければなりません。
今回も、ここまでお読み下さり
ありがとうございました。