良い先生と悪い先生の違い

 

学校の先生だけが、
「先生」という定義に
当てはまる訳ではありません。

 

お稽古、習い事、研修、
オンラインサロンなど、
あらゆるところに先生は存在します。

 

誰でも
一番の年長者、先輩になったとき、
何かひとつを極めた時に、
先生になることだってあります。

 

 

 

その道のプロである
先生から教えを請うことは、
さまざまなメリットがあります。

 

自分の力では100のことを
しなければいけないことを、
先生をつけることによって
10か20くらいで済み、効率よく学べる。

 

自分よりも先に行っているので、
何か壁にぶち当たったり、
行き詰ったときに問題解決がしやすい。

 

だから、
先生という存在は、
とても有難いものです。

 

 

 

ただ、
先生とは時に、
「先生」というポジション、肩書を
持ったがために、

 

自分が物事を一番、良く知っている。

 

教え子は、自分よりも劣っている。

 

 

自分より下のものからは、
何も学ぶものは無い

 

などと、
ふんぞり返るように傲慢になりがちです。

 

そんな先生を見てきた経験があるのでは
ないでしょうか?

 

 

もっと極端になると、
コミュニティがカルト宗教化して、
教え子が洗脳、支配されたり、
心に傷を負ってしまう。

 

などと、
そんなこともあります。

 

 

だから、
「良い先生」と「悪い先生」の見分け方
とても重要になってきます。

 

今回、お伝えすることは、
自分が「先生」になった時に、
覚えておいた方が良い
重要な考え方になります・

 

そして、本質は、

「何かを学ぶうえで、完全完璧な先生はいらない」

ということをお伝えしていきます。

 

 

良い先生がしているマインドセット

 

何が良い、悪いかを見定める時、

「何をしたら良い」「これをしたら悪い」

などという定義が存在しません。

 

良し悪しの二元論で捉えること自体、
無理があります。

 

また、
先生もまた、人間ですので間違いを
起こします。

 

むしろ先生が居ないほうが、
教え子は効率よく、知識やスキルを
学べることが出来た。

 

そんな事例もあります。

 

 

 

だから、

先生とされる人物の
内なる心(マインド)は、
どんなものか?

考え方の方が重要になってきます。

 

 

良い先生に不可欠な考え方は、
以下の通りです。

・自分は、何も知らない

 

・自分が一番、出来ない。

 

 

これを聞くと、
「は?何言ってんだ?コイツ…」
などと、
たいていの人が思うでしょう。

 

 

 

 

冒頭でお伝えしたように、
悪い先生、上手くいかない先生ほど、

 

「自分が一番、物事を知っている」

 

「自分が一番、上手く出来る」

 

などと、考えがちです。

 

 

 

「自分が一番!」
などと考えるのは、
生徒や教え子であって、
先生の役目ではありません。

 

 

下手な先生ほど、

自分が一番、しっかりしていなきゃダメだ!
自分が一番、知っていなきゃダメだ!
自分が一番、できなきゃダメだ!

などと考えています。

 

 

その「自分が…自分が…」
という心理状態がさらに加速して、

「自分が、いつも上の立場でありたい。
尊敬されていたい。

 

だから、いつまでも生徒に
抜かれたくない。」

などと、
教え子の成長を心から喜べなくなります。

 

 

後半で詳しくお伝えしますが、
教え子は、自分よりも
劣っているのだから厳しくしていい。

 

という考えは、

 

教え子の自尊心を傷つけることを
良しとする考えにつながるのです。

 

「教育」が「いじめ」に発展する、
最悪の教え方です。

 

子育てにおいて、
「しつけ」と称して「虐待」してしまう
親御さんにも同じことが言えるのです。

 

 

さらに、

 

 

「自分が一番、物事を知っている。
だから教え子は、自分よりも劣っている

などという心理は、
教え子の「話を聞く」ということを
しなくなります。

 

話が演説のように、いつも
一方通行な先生にありがちですよね。

 

そこに生徒と先生のコミュニケーションは
存在しません。

 

 

 

 

 

冒頭でお伝えしたように、

「自分が一番、知っている」

という考えは、
そこから学びがストップします。

 

いつか、
最先端であった知識、スキルは
時代の流れと共に、
古いものとなっていくのです。

 

教え子にとって
むしろ先生が居ないほうが、
よっぽど成長できた

 

ということがありえるのです。

 

 

先生の役目とは?

 

極論を言うと、
先生の役割は「教えること」ではありません

 

まるで太陽のように、
「そこに居る」というだけです。

 

それが先生の役目です。

 

 

 

逆に、
悪い先生、センスの無い先生ほど、

・あれこれ、教えたがり

 

・重箱のスミをつつくように指摘したがり

 

・コントロールしたがり

です。

 

いつしか、
「教え」をしている自分に酔いしれ
いつしか、その場が宗教化し、
先生が教祖様のような存在になってしまう
のです。

 

 

 

これを聞くと
「は?バカ言ってんじゃないよ!」
などと、ほとんどの人が
そう思うと思います。

 

 

当然です。

 

日本の学校教育、部活で行われていたことが
最低でも9年以上、続いていたのですから
仕方ありません。

 

極論になりますが、
学校とは、
生徒に役に立つ知識、スキルよりも

 

効率よく指示、命令に従う
従順な従業を育成するための場所です。

 

 

詳しく話すと長くなりますので、
以下の参考記事をお読みなってみてください。

 

 

良い先生の特徴とは?

 

先生とは、
教え子と一緒に学ぶことをしています。

 

「一緒に学ぶ」ということが重要で、
先生とは上から下の関係をイメージしますが、
理想は横の関係です。

 

 

先生だからと言って、
「自分が一番、知っている」という
考えでは無く、

 

何か問題にぶち当たった時は、
「共に考える。」
ということをします。

 

 

例え、先生が解決方法を知っていたとしても、
その方法は、教え子にとって
「必ずしも当てはまるもの」であるとは
限りません

 

むしろ、先生が知っている知識が、
既に時代遅れで、陳腐化している可能性も
あるのです。

 

 

では、
「先生」という存在なんて、
いらないのではないか?

 

そうかもしれません。

 

 

 

ここで話をしていることは、
江戸時代の「寺子屋」の考え方に
近いかもしれません。

 

 

寺子屋に「先生」は、居なかったのか?

 

というよりも、
全員が先生でした。

 

寺子屋に集まる生徒は、
年齢に関係無く、互いに教え合う
ということが存在していました。

 

普段、年上の先輩から
儒学を学んでいたけれど、

 

あるときは、

 

蘭学に詳しい年下の後輩から、
蘭学の授業を受ける。

 

そして、
自分自身は国学が一番得意で、
誰よりも知識があったので、

 

国学の授業をする際は、
自分が国学を教える先生となる。

 

そんなシステムです。

 

 

現代のような、
まるで、すべてを網羅しているかのような
唯一絶対的の存在である「先生」が
作り出されたのは、150年前の明治以降です。

 

 

まとめ『先生で無く「永遠の初心者」たれ』

 

 

自分自身が何かを極め、
人に教えようとする時、

 

気を付けなければならないのは、
自分が「先生」だと思った瞬間に、
そこで、学びと成長はストップします。

「先生」なのだから、
舐められてはならない!

などと考えた瞬間に、

 

「一緒に考える」ということが
無くなるので、

 

生徒や教え子にとって
教えられることは何もありません。

 

 

 

だから、いっそのこと先生はいらない。

 

自分は、いつまでも「初心者」であると
考えていたほうが、
よほど時代に合わせた進化が出来るのです。

 

 

 

 

もちろん、

「プロ意識」を持たなくていい

 

「ご教示を頂く人」を舐めていい。

という訳ではありません。

 

 

 

人に教えている間は、
他のことを犠牲にしなければなりません。

 

命である時間を頂く行為です。

 

 

無駄な時間にしたくないし、
「教える」ことで、何か自分にメリット
無ければ、ヤル気が出ません。

 

 

だから、

時に対価として「お金」を払って
教えを頂くという

ということが存在しているのです。

 

 

もしくは、

先生自身に「新たな学び」「気づき」など
何かメリットがある

という理由で質問に答えたりするのです。

 

 

 

誰に対しても「時間を頂く」という
意識が無ければ、なりません。

 

「時間を頂く」という意識が
片隅にあれば、
「質問力」が自然に磨かれていくのです。

 

 

 

今後、本やDVD、セミナー、
専門学校、オンラインスクール
などの「自己投資」をする際、

妥当な料金設定なのか?

 

高いのか?安いのか?

という疑問にも対処できるのです。

 

今回もここまでお読みくださり
ありがとうございました。

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