「学校に行きたくない」のに行くと不幸になる理由
「学校に行きたくない」
と感じ始めたり
そう言っている子供が
いたとしたら
言っていることは
「甘えでもなく」
「怠けている訳でも無く」
正しいということを
以下の記事で
お伝えしていきました。
日本の学校教育では
正しい答えがある
かのような価値観を前提に
教育をしているので
世の中に出て
苦しむことが多くなります。
なぜなら
世の中に正しいことも無く
社会は正解が無い問題を
乗り越えなければならない
からです。
日本の学校教育では
道徳教育を教えているので
不幸になります。
なぜなら道徳教育は
実際に出来るものと
出来ないものがあります。
脳や精神が成長途中のため
物事の判断が出来ない
14歳未満の子どもに
いかにも正しいような価値観を
植え付ければ間違いなく
混乱します。
大人になって抱え込む
劣等感を植え付ける行為
になります。
日本の学校教育では
経済的に豊かになることが
できません。
なぜなら
誰かに雇われて生きる
従業員になるため
の教育だからです。
学校の先生も
国に雇われている従業員なので
お金のことも
会社経営のことも
教えることが出来ません。
日本の学校教育を
いち早く抜け出した人の方が
幸せをつかむことが出来たり
経済的に成功する確率が
高いのです。
今回は
学校教育がなぜ今のようなシステムに
つくられたかを
歴史の話を交えて
ご説明していきます。
学校教育の目的
今のような学校教育のシステムの
ようになった理由を
語るには
今から150年前に
さかのぼらなければ
なりません。
150年前の日本は
幕末の時代、
外国の船がやってきては
やりたい放題。
外国が日本の法律を
変えてしまったり
アンフェアな取引を
武力で脅して
調印させたりしていました。
何も太刀打ち出来ない
当時の政権である
幕府に対して
国家存亡の危機を
抱いていた人達がいました。
それが
吉田松陰や坂本龍馬が登場する
尊王志士と言われる人達です。
尊王志士とは
もともと幕府に仕える侍の
ことです。
外国の侵略に対して
何もできないひ弱な幕府に対して
不信を募らせるようになります。
そして、幕府に仕えることをやめ、
浪人と言われるようになります。
浪人とは今でいう
定職に就かないニートのような
扱いを受けていたのかもしれません。
そんな浪人の集まりを束ねて
薩摩藩(現在の鹿児島県)、
長州藩(現在の山口県)
土佐藩(現在の高知県)を
中心とした勢力が
幕府を倒して
世直しをしていくのです。
社会の教科書では
明治維新と
習いましたね。
幕府を倒したあとに
彼ら尊王志士たちは
明治政府を作り上げていくのです。
新しい国の立て直しをする
ための政権です。
その時、日本の周りは
すでに西欧列強や超大国に
よって植民地になっていました。
とはいっても
外国に太刀打ちできるほどの
軍隊も無ければ
経済力もありません。
モタモタしていたら
日本も外国の植民地になって
しまいます。
即急に
強い軍隊を作り
工業化を推し進めて
経済力をつけなければなりません。
そのために
上司の命令に忠実で管理しやすい人材
つくるための教育システムを
作りました。
「上司の命令に忠実で管理しやすい人材」
とは
今でいう
「会社に勤める従順な従業員と
なんら変わりません」
当時、お手本にしていたのが
フランス陸軍が運営する
刑務所です。
教室という場をつくり
看守をモデルにした「先生」という
人物を置くことで
効率良く、素早く、
育成することが出来ます、
明治政府の思惑通り、
指揮系統がきちんと行き届く
規律の整った人材を輩出し、
軍隊として管理された兵士を
育成することが出来たので
強い軍隊を作ることができました。
上官の命令一つで
爆撃や銃撃の雨をつき進むことの出来る
最強の軍隊です。
長時間、同じ作業を繰り返し作業が
行える女工を育成できたので
モノ、商品、サービスを大量生産して
豊かな経済力を得ることができました。
当時の列強となんら変わらない
工業力を可ね揃えた豊かな経済大国です。
目的を達成することが
出来たのです。
学校教育では上手くいかない理由
実際に
アメリカとの戦いによる
敗戦まで
日本が外国の植民地に
なることから免れたわけです。
さらに続きがあります。
敗戦後も
占領軍であるGHQによる
大きな教育改革はあっても
「従業員を育成するための教育」は
変わることはありませんでした。
しかし戦後は
車、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、クーラーなど
モノを作れば作るほど
売れる時代でした。
需要と供給では
需要がはるかに上回って
いるのです。
高度経済成長と言われる
時代です
モノを大量に作るためには
「上司から
言われたものを言われた通り
正確に素早くこなす人材」が
大量に必要とされてきました
この時代でも
かつて明治政府が作り出した
「強い軍隊を作るために
命令一つで従う忠実な人材」
「経済力をつけるために
ひたすら長時間同じ作業を
正確にこなせる管理しやすい人材」
そのような人材が
モノを大量に生産する時代と
絶妙にマッチした
のです。
日本をかつて世界1、2位の
経済大国に押し上げたのは
「上司の命令に忠実で管理しやすい人材」と
「従業員になるために教育」
のおかげに他なりません。
しかし
1980年以降は
需要と供給では
供給が上回りました。
モノがあふれ始めたのです。
誰もが
テレビ、洗濯機、電化製品、車、マイホームを
すでに持っているので
モノを作っても売れません。
むしろ作れば作るほど
在庫になり、赤字になる
倒産してしまいます。
これからの時代は
モノを作れば作るほど売れる時代ではなく
アイデアを練って
今まで誰も思いつかなかった
新しいサービスを創造する時代
になったのです。
第3次、第4次産業革命と言われる時代です。
IT、人工知能、AI、VR、Iot、youtuber
などが主に典型的な例です。
上司から言われたものを
言われた通り正確に素早くこなす人材
が不要になってしまったのです。
時代遅れの学校教育
21世紀に切り替わる
2000年以降は
ロボットや機械による自動化、
自立化によって
言われた通り正確に素早くこなす人材
が不要です。
大企業であればあるほど
従業員をどんどん減らして
いっているのです。
それに関わらず
教育は150年前と変わらず
「上司の命令に忠実で管理しやすい人材」
をつくるための教育から
なんら変わっていない
のです
明治維新の近代から
1980年代の高度経済成長期までは
上手くいっていましたが
時代が変わった
現代では上手くいかないのです。
真面目に学校教育を受ければ
受けるほど
時代が求めている人材とは
かけ離れた人々が
輩出されても仕方ありません。
もし、
今まで学校では
秀才と呼ばれていた人が
社会に出て納得がいかなかったり
求めていたものとは違う結果ならば
それは
学校教育と実社会では
大きくかけ離れていたことが
原因なのです。
現在進行形で
学校教育を受けている子どもたちが
ネット、スマートフォン、SNS、youtubeなど
最新の情報にみじかであればあるほど
学校で教えられていることが
無意味に感じて
「学校に行きたくたくない」
と感じるのは
当然のことなのです。
学校教育では
「上司の命令に忠実で管理しやすい人材」
を目的としているので
先生や上司の言うことは
絶対です。
例え、先生や上司が
間違っていたとしても
指示に従わなくてはなりません。
間違った行いを淡々と正確に
こなさなくてはならないのですから。
これからの時代に即した人材になるには
学校教育では教えられていないことを
自分で勉強しなくてはなりません。
学校教育で教えられた価値観と洗脳を
自分で外さなければなりません
自分で行動しなくてはなりません。
学校教育を真面目に受けて卒業した
はずなのに
会社で無能な扱いを受けているならば
自分で自立しなければなりません。
自立とは
新しい技能を身に着けていくことだったり
社会や組織に依存せずに
自分の身は自分で守ることだったり
人それぞれです。
自立するには
勉強、行動しかありません。
余談ですが
西郷隆盛や大久保利通、大隈重信など
明治維新を起こした人々が
2018年の現代にタイムスリップしてきて
今の日本の教育システムを見たら
全力で新しい学校教育へと
アップデートするに違いありません。
従業員になるための教育では無く
一人ひとりが新しい時代に適応できる
自立した人材を
育成することでしょう。
若者がワクワクするような
もっと面白い時代へと。
浪人と呼ばれたようにニートと
扱いが変わらないゼロの状態から
革命を起こすでしょう。
道徳教育が無気力を作り出す
自分で勉強、行動しようとすると
「人の輪から外れること」
「集団から外れて浮くこと」
が必ずあります。
すると
「何もしない方が良い」
などと思いこみます。
「何かをやったら失敗するかも
しれないから」
「何かをやったら人に迷惑を
かけるかもしれないから」
「何かをやったら恥をかく
かもしれないから」
などと
行動することを
止めにかかってきます。
その原因は
道徳教育
です。
道徳教育では
「失敗をしてはならない」
「人に迷惑をかけてはならない」
「恥をかいてはならない」
「〜してはならない」
という禁止の教えが教えられています。
14歳までの子どもは
「自分は何者なのか?」
という自我を身に着けることが
できていません。
脳や精神が成長途中ですから
自分にとって
「良い情報」「悪い情報」を
判断することが出来ません。
大人であれば
耳にフタを出来ることさえも
周りの情報をすべて
鵜呑みにします。
大人になって子どもの頃に受けた情報を
忘れていたとしても
心に刷り込まれ続けているのです。
そんな自我が未発達な子どもに
対して
「失敗をしてはならない」
「人に迷惑をかけてはならない」
「恥をかいてはならない」
と教え込まれたので
大人になってから
何かを始めようとしても
無意識にストップがかかる
原因になっているのです。
道徳教育は宗教
杉山は
道徳教育を
宗教だと思っています。
道徳教育に書かれている
「年上が偉い」
「年下は、年上よりも価値が低い」
「後輩は先輩に従わなければならない」
という教えは
儒教
の考え方です。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など
世界中探しても、他の宗教とは違って
「年上が偉い」
というのは
儒教だけです。
いわば年上と年下で
差別
をしているのです。
もちろん、宗教が悪いこと
ではありません。
大事なのは
いかなる宗教、思想、教えも
自分で取捨選択すれば
良いのです。
しかし、
自我が未発達な子どもは
取捨選択することが出来ません。
なぜ、
道徳教育で儒教が
取り入れられているの
でしょうか?
それは
「支配・管理」
するためです。
儒教とは
もともと今から2000年前、
春秋戦国時代の
中国大陸で生まれたものです。
バラバラの国が乱立して
常に争いが絶えない時代でした。
たとえ、
1つの国が大陸を統一したとしても
人々の心がバラバラのままでは
国もすぐに分裂してしまいます。
統一を長く保つには
人々の心に
「これが正しい」
という1つの価値観が
必要になったのです。
そこで登場したのが
儒教
です。
孔子という人物によって
編み出されました。
民衆には
国を統一する皇帝を最も
尊いと感じさせ、
歯向かうことは悪という
価値観を心に宿したのです。
こうして民衆を
支配・管理して
1つの国を維持し、
平穏な世の中を維持しました。
儒教はもともと
人を
支配・管理する
ためのものなのです。
日本にもかつて
常に争いの絶えない時代は
ありました。
特に戦国時代の後、
江戸幕府が日本を統一した後、
長く平和な時代を維持するには
儒教のような教えが
最も適していたのです。
儒教は朱子学へと変わり、
現代の道徳教育へと
受け継がれました。
しつこいようですが
物事は
良い、悪いの
二極で捉えることは
出来ないのです。
道徳教育がなぜ必要なのか?
「人を都合よく支配・管理するため?」
「平和な時代を維持するため?」
本質を考えられるように
ならなくてはいけません。
手段が目的になっては
ならないのです。
本質を知るには?
人が夢・目標を立て、
行動すれば必ず失敗することは
あります。
1回の成功をするために
大小含めて、10回の失敗を
することもあります。
なぜなら
成功を知るためには
失敗を知らなければなりません。
その失敗を悪いと思うように
なってしまう。
他人の失敗を攻め、
笑い、蔑む。
それを見た若者は
ますます何もしなくなる。
無気力な人材を輩出するくらいなら
道徳教育は無いほうが良い
です。
学校教育で本質を教えられなければ
真面目に受けてきた人ほど
現代では不幸になります。
1つの正しいという
価値観のまま思考停止でいたら
必ず時代に合わなくなるから
です。
時代、国によって
正しさは移り変わるので
生涯かけて勉強し続けなければ
ならないのです。
今回もここまで
お読みくださりありがとうございます。