差別を無くすには?「偏見を持っていい」
「差別はしてはいけません」
「偏見を持ってはなりません」
この言葉に異議を唱えようものなら
犯罪者のようにレッテルを貼られる
ことが多いかと思います。
これだけ大きく、
デリケートに扱われておきながら
公の有識者ほど
「そもそも差別とは?偏見とは?」
について、本気で考え、
語ろうとしていません。
この問題に
必死に取り組んでいる良い人で
真面目そうな人のほど
「あの人はレイシスト(差別主義者)だ!」
「差別をやめろ!人権を守れ!」
などと、どこか感情的になるだけで、
本質を伝えようともしません。
また、差別と偏見という言葉が
一緒のように捉えられていますが
意味は天と地の差ほど違います。
最後まで読んでくださらなければ、
誤解を招くかもしれませんが
差別を無くすために、
偏見は持っていていい
というテーマについて
お伝えいたします。
差別と偏見の違い
差別と偏見の違いは
実際に頭の中で思ったことを
行動に移したりするかしないか
です。
「この人とは気が合わないな」
「〇〇さんが好き」
「この人は信用できて、あの人は信用できない」
といった、
人によって「好き、嫌い」の感情が
すべて偏見です。
だから
人から偏見を無くすことは
できません。
もし、全く偏見の無い人は、
「私は、どんな人も平等に愛しているので
彼女(彼氏)は誰でも良いです」
「お母さんと、そこらへんのゴキブリと
価値は一緒です。」
などと平然と言ってしまい、
誰も好きになれず、誰も嫌いにもなりません。
どんな宗教の経典や思想でも
人をどんな人も区別無く、
平等に扱い、全てを愛しましょう
ということが出来るのは、
人間でない神様だけ
と、きちんと説明されているのです。
どんな宗教にも登場する神様も、
人間に出来ないことを出来るから、
何よりも偉大であり、
崇める対象になりうるのです。
なかには、履き違えて、
神様でも無い人間が、
頑なに、その教えを守ろうとして、
上手くいかないことが多いから
攻撃的になり、殺し合いの紛争に
発展するのです。
だから、
人は偏見は持ち続けていい
のです。
人が神様と同じことをしなければ
いけないのでは無く、
出来る範囲で1歩1歩、少しずつ
最善を尽くすことが望ましいのです。
そして、
差別は偏見を行動に移すことです。
実際に相手に向かって、思ったことを
発言したり、攻撃したりすることです。
距離を置いていれば良いのに
わざわざ関わって、我慢をしているから
怒りが爆発し、
「いじめ」「弾圧」「戦争」が
無くならないのです。
差別が起こる原因
「偏見を持ってはなりません」
「みんな仲良くしましょう」
「どんな人も等しく平等に扱いましょう」
などと、
大人でも出来ないことを
平然と息を吐くように
学校の先生に教えられて
いたかもしれません。
14歳までの子供の脳は
構造上、スポンジのように
周りの情報を吸収してしまうため、
大人のように情報の取捨選択が
できません。
先生の言っていることは、
間違っているかもしれない。
などと思うことが出来ない
子供の方が多くて当たりまえです。
教えられたことを、
そのまま実行しようとするので
「この人と合わない、嫌だな」
と感じていても、
「そう思ってはいけないんだ!」
と、我慢してストレスを溜めるように
なるのです。
次第に溜まったストレスは爆発し、
相手を攻撃してしまうのです。
これが大人の世界でも、
国家同士のやり取りでも
行われているのが現状です。
偏見を自覚する
もともと優しい心を持ち、
困っている人を見たら、
放っておけない。
飢えた人がいるならば、
自分の食べる分さえも、
分け与えようとする人。
人権問題に熱心で、
真面目な良い人。
そんな人ほど
「人は偏見を持つ生き物だ」
ということを
自覚できなければなりません。
でなければ、次第に
「自分は、良いことをしているはずなのに、
なぜ自分がこんな辛い思いをしなければ
ならないんだ!?」
と思うことが多く、
我慢をしても、いっこうに
上手くいかないことが多いでしょう。
「差別、偏見は良くありません」
などと、誰にも教えられずとも
もともと優しい心を持った人が
平等の名のもとに、
敵を見つけて過激な行動に出たり、
偏った思想を持って、
周りの人に迷惑をかけるのです。
「自分には偏見がある」
ということをはっきりさせて
おくことができれば、
誰かに手を差し伸べる時、
「私にも生活があり、
出来るのはここまでだよ。
それから先は、貴方の問題だよ」
と、ボーダーラインを決めて
接することが出来るのです。
国同士のやり取り
固有名詞を出すのは控えますが
日本が抱えている問題があると
思います。
それを発言しようものなら、
どちらの勢力にも
「差別(レイシスト)だ!」
「コイツはわかっていない!」
と言われてしまうかもしれません。
「偏見を持ってもいい」
ということに置き換えると
もし、
求めているサービスを受けたいのなら
そのサービスを提供する側の信用を
得なければなりません。
会社やお店に例えるなら
トラブルを起こしそうなお客さんを
わざわざ入れたくありません。
それを差別だ!人権侵害だ!
と言われたとしても
責任を持ってサービスを提供する以上、
お客さんにも最低限のボーダーラインを
守らなければ、良質なサービスを
提供することが出来ません。
国家も同じく
・借りたものはきちんと返す
・ルールは守る。
・双方、メリットがあるようにフェアに取引をする
・相手国の不利益を被るようなことはしない
といった
最低限のボーダーラインという
信用を得なくては、
関わることが出来ないのです。
無理に関わり、不利益を講じても
我慢をしてしまえば、
怒りが爆発し、
必ず紛争に発展するのです。
いち個人も、会社組織も、国家も
規模が大きくなるだけで、
本質は変わりません。
今回もここまで時間をとって
お読みくださり、ありがとうございます。