ダイバーシティ(多様性)とは?
ダイバーシティ( 多様性)とは
性別、人種、年齢、宗教、考え方など
多様な人材を積極的に活用し、
社会をより良くしていこうという
考え方です。
もっと簡単に言えば、
今まで排除されてきた個性が
現代では必要になってきたのです。
多数派がまるで「正常な人間」であると
される時代が終わるのです。
障碍者や社会不適合者が
「正常ではない」とされるのは
古い考え方になるのです。
少数派や個性が、単なる人権意識では無く、
社会にとって重要なポジションを占める
のです。
理由を詳しく説明していきます。
なぜダイバーシティが必要なのか?
20世紀の社会構造が、
モノが不足していたので、
決められた商品を作れば作るだけ
売れる時代でした。
鉄鋼、工業、車、電化製品、日用品、
部品、半導体などが典型的ですよね。
これらの大量生産される商品に
個性があると品質にバラつきが出てしまい、
望ましくありません。
むしろ個性はいらない。
マニュアル通りに、
人間が機械や歯車の役割をすることが
求められていました。
これによって、
低コストで大量生産が可能になりました。
20世紀の軍隊や学校教育にも
同じことが言えます。
個性を活かして勝手な行動を取られるよりも
司令官の命令1つでマシーンのように
忠実に動いてくれる人材が
優秀とされたのです。
日本の場合は特に、
このシステムが大量生産を助け、
経済発展を遂げたのです。
しかし、
21世紀は違います。
世の中には既に商品、サービスで
モノがありふれています。
だから、
20世紀と同じようにモノを作っても
求められていないので、売れません。
さらにインフラの整備、
インターネットの登場で
グローバル化したので、
個性など無く、
マニュアル通りに動く人材ならば、
海外の人件費の方が
安く済んでしまうのです。
21世紀の日本は、
20世紀のやり方を引きづり、
せっかくのグローバル化を、
うまく活かしきることが出来ず、
「失われた20年(30年)」と
言われるくらい
経済がまったく発展しないのです。
さらに人工知能の登場、移民政策、
クラウド化により、
いまだに1980年以前のやり方を
信じている経営者の会社は、
軒並み淘汰されている状況です。
個性が無いロボットのような人材が
「優秀」と見なすのでは無く、
ダイバーシティ(多様性)に目を向け、
新たな商品、サービスの創造と
マーケティングに活かそうとしている
のです。
多様性の本質「多数派が少数派に合わせろという意味では無い」
かつては「変わっている人」「普通じゃ無い」
などと、煙たく扱われていた人材は、
物事の見ている視点が違うということです。
人と違う視点で見ているからこそ、
誰もが思いつかない
アイデアを思いついたり、
既存のものに問いを立て、
付加価値を創造するのです。
歩けない、耳が聞こえない、
目が見えない、多くの人とは違うなどの
そんな障碍者も同じです。
今まで健常者とされた人が、
いざ事故や病気で障碍者になったら、
物事を見る視点がガラリと変わります。
本人にしか見えない不便さ、
周りからの反応、考え方がわかるように
なるのです。
「もう自分は、普通では無いからダメだ」
などと、捉えるのでは無く、
「自分にしか見えない
ダイバーシティを手に入れたのだ。」
と、考える方が生産的です。
多数の人がわからないことを
わかるようになる。
ということは価値が高く、
新たなアイデア、考え方を生みやすい
のです。
もちろん、
ダイバーシティを、はき違えてはなりません。
「多様性を重視する世の中なのだから
何をやってもいい」
「人を差別したり、嫌がることをしても
これが自分の個性なのだ!」
これを読んでいるような人は、
こんな浅はかな考えをしないと思いますが、
意志の無い多様性は、
多様性のなんにでも無いということです。
意志のある多様性とは、
「他の人には、理解できなけど、
自分には、コレが美しいと思うんだ!」
という情動的な思いだったり、
「周りの人がNOと言えども、
自分には、○○という理由があるから
コレが良いのだ!」
という信念があることです。
意志も信念の無い多様性を、
共感を求めようとして、
誰か他人に押し付けることは、
最悪です。
かつて「自由」という言葉が
もはや倫理を超えて乱用したように、
ダイバーシティ、多様性という
言葉だけが先行しまうのは、
望ましくありません。
ダイバーシティの人ほど誰かに共感されにくい
多数の人間よりも違うことが
大きければ大きいほど
「ダイバーシティが高い」
と言います。
ダイバーシティが高い人ほど
他の人に共感はされにくいです。
だから、自分のダイバーシティが
高いのに気がつかず、
自分が言ったことは、
相手に共感されるだろうというマインドで、
相手に話をすると、
望んだ反応が返ってこないので、
「なんで、わかってもらえないのだろう」
という世知辛い気持ちは、
数多くしてきたと思います。
他の記事でもお伝えしているように、
人は共感、理解されたいという
自己承認欲求が
何よりも強い欲求として存在します。
しかし、自己承認欲求は、
自分でコントロールしなければなりません。
自分の欲求に振り回されて、
せっかく理解に努めようしている人との
関係を壊すことは、望ましく無いからです。
これはダイバーシティの有無に関係無く、
人が他人のことを理解することは、
無理だからです。
なぜなら、
人は誰一人も同じ人はいないからです。
自分以外の他人はすべて、
違う肉体、違う環境、違う食べ物、
違う情報を聞いてきました。
100%相手を理解することは不可能です。
相手の理解、共感に努めようとするのは、
せいぜい相手の
「10%、20%理解できたら良いな」を
増やしていくことが目的であって、
100%理解することが目的ではありません。
逆に
「相手の100%を理解しないと
信用が出来ない!」
という人ほど、
「相手のハダカや私生活を24時間、
監視させろ!」
などと言っているのと同じくらい
傲慢なことです。
「相手のわからないことが
気になってしょうがない」
という気持ちは、
必ず相手を支配、管理したいという
欲求の裏返しです。
自分の喋ることは、
相手が共感してくれるという前提を
避けることが望ましいのです。
かつ、
相手の言ったことに対しては、
自分から1つもで多く共感できるように
最善をつくすことが
良好な人間関係を築くのです。
ダイバーシティ(多様性)の正しい使い方
ダイバーシティ(多様性)の良いところを
お伝えしていきましたが、
ダイバーシティ(多様性)がありすぎると
マイナスの要素に働く場合についても
お伝えしておきます。
絵の具に例えるならば
赤色と青色を混ぜると
紫色になりますね。
赤色は、
青色という多様性を受け入れることで
紫を作れるようになったのです。
赤色だけでは
決して作ることが出来なかった
新たな紫色を創造することが
出来たのです。
これが
冒頭でお伝えしたような
ダイバーシティ(多様性)によって
生み出される新たな商品の創造、
イノベーションになるのです。
さらに
赤色は、青色だけでなく、
「もっと多様性を受け入れれば、
さらに素晴らしい色が
創造できるに違いない」
と考え、
さらに多様性な12色を
混ぜてみました。
すると、結果は
黒だか、茶色だかわからない
汚い色が出来てしまいました。
望んだ結果ではありません。
これは、多様性をあちこち入れすぎて、
問題解決に至らない典型的な例です。
議論にも同じことが言えます。
「自由に議論してください。」
などと言われたら、
一人ひとりが自分の言いたいことを
言うだけで、話がまとまらない。
それどころか、
話の内容がアチコチ飛んでしまう。
時間だけが過ぎるだけで、
何一つ問題解決されていない。
思い当たるふしがあると思います。
多様な人がディスカッションしていても、
問題にフォーカスしてなかれば、
問題解決にならないのです。
あらかじめ議論する人が、
「同じビジョン」「同じ問題意識」を
持ってのぞむ。
もしくは、
シメルとこはシメルという
MC、リーダー的な役割の人が
必要なのです。
たとえ、
議論とは別の話をしだした人に対して
MC、リーダー的な役割の人が
けしかけたとしても、
本来の目的であるビジョンのために
コントロールしているという信念があれば、
これは弾圧でも、差別でも、
ダイバーシティ(多様性)を
否定している訳ではありません。
まとめ
ダイバーシティ、多様性は、
21世紀に欠かせない必要な人材です。
「多様」と聞いて、
言葉をそのまま自分の都合の良いように
切り取って、
「変な人が変なことを
好き勝手やっていい」
という意味ではありません。
ダイバーシティという視点から
物事を捉えたことを、
「どうやって新たな価値の創造に活かそうか?」
というマインドが大切なのです。
今回もここまでお読みくださり
ありがとうございました。