薄っぺらい人生を生き残るために岡本太郎を学ぶ

薄っぺらい人が気になって仕方ない人のために

 

薄っぺらい人が気になって、
目の前のことすら手につかない。

 

SNSでフォロワー数を稼ぎたいが、深くてコアなこと、
考えさせられることを発言しても需要が無い。

 

世の中のコンテンツは薄っぺらい

 

でも、それらは自分のマインド(精神)の問題である。

 

そんなことは、わかっている。
やはり自分は、自分の願い、哲学、思想、信念を押し殺して
周りの薄っぺらい人間と同調し、生きていくしか無いのか?

 

そんな悩みを抱えている人のために述べ伝えていきます。

 

 

 

まずは、

「おまえは一体何を言っているんだ。」

という感性の世界のビギナー向けに先に解説しておきます。

 

これを読むことで、

「アートや哲学、文学、芸術、古典、宗教、スピリチュアルが何の役に立つんだ?」

という答えに近づくことができます。

 

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なぜ天才は早死にしてしまうのか?

 

世の中の天才と言われる人たちは、
自ら命を絶つ人が多い傾向にありますよね。

せっかくファンになったミュージシャンや作家が、
ある日突然、引退してしまったり、
自殺してしまい虚しい気持ちになった。

なんて経験も少なからずあると思います。

 

 

そんな人の心理が以下の通り。

 

 

フィーリング(感性)が発達している子に多いのですが、
幼少時代の時から、自分の話が全くかみ合わない

 

理解もされるどころか、対話の機会すら設けてもらえないので、
同じ時間、世界を生きているのに、どこか大きく隔絶された感覚に陥ります。

 

どんな子も、最初は謙虚です。

「自分から積極的に対話し、もっと分かりやすく伝えなきゃダメだ。」

などと、腰を引いて接する努力の甲斐もなく、
周りから拒否をされたり、バカにされたりします。

 

なので次第に、

「こいつら何も感じずに生きているか?」

 

「周りの子の方が、大人が作り出した大衆向けのコンテンツに洗脳されている。
それに気が付きもしないバカどもめ!周りがオカシイんだ!」

 

などと、
寂しさゆえに、自分から境界を引いて自分をふさぎ込んで守ろうとしたり、
ついつい攻撃的になって人を見下すこともしてしまいます。

 

インフルエンサーの言っていることが、
「薄っぺらい」「言っていることは間違っていないが、なんか違う。」
と感じている人も、身に覚えがあるのではありませんか?

 

薄っぺらい人間関係に苦しむ心理

 

芸術家や作家、アーティストなどで、
少し成功された方に多いのですが、
ちょっと大衆に認められたのなら

「ほれ見ろ!やっぱり間違っていなかった!私は正しかった!」

などと何にも代えがたい自己承認欲求が満たされ快感になります。

 

しかし、その快感は長続きすることせず、
自分を褒め讃え、ついてきてくれる人でさえも、

「なんて薄っぺらい奴らなんだろう。。。」

 

「おまえらは作品の何を見ているんだ?!全然、何もわかっていない。」

 

周りから見れば、とても成功し、物質的な豊かに見えるのに、
本人にとっての精神的には何も変わりません。

 

心はまるで、飢えた沙漠のど真ん中で、独り喉をカラカラにしている状態です。

 

外(物質世界)内(内面世界)のギャップが激しくなればなるほど、
そのダメージは大きいものです。

 

物質的な成功しているのに、純粋な人ほど自ら命を絶ってしまう心理なのです。

 

今まさに、これに苦しんでいる人は、以下の記事のような
自分がかけている色眼鏡(フィルター・固定観念)を外す。
ということが解決の糸口かもしれません。

 

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薄っぺらい人が気になるなら、岡本太郎を知ろう

 

岡本太郎と聞いて「芸術は爆発だ」などと言っている、
変な(なんかカッコいい)オッサン。そんな認識かもしれません。

 

岡本太郎氏もまた、ある日突然、命を絶ってしまいそうな
典型的なアーティストタイプでした。

 

しかし84歳まで、わりと生きながらえてますよね。

 

自らも常に周りとの隔たりに対して、
芸術という道具を使って戦い抜こうとした。
そんな姿勢から革命家と言われる由縁でもあります。

 

岡本太郎いわく、常に孤独で苦しいのなら、
あえて死に片足をツッコんでやろう。

 

「いつ死んでも構わない!」というマインドセットがあったのです。

 

岡本太郎のマインドセット

 

 

逆に、その姿勢が、以下の考え方を生んだのです。
(岡本氏の格言を抜粋)

と、己の生」、

正反対のものがバンバンぶつかり合うことで

新しい価値観、考え方、気づきが生まれる。

 

「自分の本当にやりたい事を何割か下げて

相手のことを気にして互いになれ合うことが調和では無い。

批判を恐れずにぶつかり合うことこそ調和。」

 

「人間ていうものは、純粋なものと、卑しいものの間に挟まれて

自分をきりひらき、それを爆発させる生き方。」

 

※この考えは、ヘーゲルの弁証法(アウフヘーベン)に近いとも言えます。

 

哲学者ヘーゲルが考案したお互いの主張から、
A(花)でもB(枯れる)でも無い
C(果実)という新しいアイデアを出していく。という手法です。

 

アウフヘーベンをするマインド

 

岡本太郎は、芸術を使って
自分の世界」と「外の世界」を互いにぶつけまくることで、
新しいアイデアを生み出しまくった。
弁証法を使いこなせていた。と言えます。

 

幼少時代の岡本氏は、学校教育の全体主義的な押し付けの教育の在り方と対立し、
芸術でフランスのパリに留学するというアウフヘーベンを取る。

 

パリでピカソに出会い、衝撃を受け尊敬し、キュビズムの技法を真似るようになるが、
「尊敬しているとはいえ、他人の真似事ではダメだ」と、あえてピカソと対立し、
日本の縄文土器のような技法というアウフヘーベンを取る。

 

近代日本のガチガチにシステム化され、皆が同じで薄っぺらい思考、風潮と対立し、
冒頭で説明した「真の調和」という自身の哲学をアウフヘーベンを得る。

 

※まさに大阪万博のど真ん中に現れた「太陽の塔」は、
「真の調和」を表現した象徴的な作品である。と自身が解説してくれています。

 

大阪万博_太陽の塔

 

もちろん、口で言うより実際にやってみるのは、
並大抵のことではありません。

 

ここで言いたいことは、
他人のことを気にしてしまう。
自分の弱さに打ちひしがれているのなら、

 

一度youtubeで岡本太郎の肉声と文脈を聞いてみると、
ヒントが見つかるかもしれません。

 

芸術家という枠に収めておくのは生ぬるく、
れっきとした哲学者(心理学者)であることが理解できます。

 

 

薄っぺらい人間をやめて変な人で終わらないために

 

「岡本太郎の言っていることは、
働かなくても既に生活費がある人が、自由に言えることだろう。」

と思いますが、確かにその通りでもあります。

 

だったら、生活費のために、既存のシステムに乗ること
自己対話を通して見つけた、本当に自分がやりたいこと。(お客さんは自分。)
両方、どっちもやってみれば良いと思います。

 

いずれ、アウフヘーベンすることを信じ。。。

 

 

また、弁証法(アウフヘーベン)を誤解して欲しくないのは、
対立する相手に対して、自分の考えで塗り替える。ことでは決してありません

 

幼少時代の岡本氏でさえ、対立する「学校教育」、「ピカソ」、「近代日本」に対して
自分の色で塗り替えてやろう。などとテロを起こしたりはしませんでした。

 

対立(矛盾)する相手に対し、とりあえず自分なりに吸収しようとしたり、
求めうる結果を互角に出そうとしていました。

 

なので、
「自分の世界が大切だ!」などと、

「それを受け入れてくれない世間に駄々をこねれば良い。」

 

「おバカで薄っぺらい大衆に紛争を仕掛け、見せつけてやれば良い」

 

「わかってくれない相手を支配してやれ!」

などと言いたい訳ではありません。

 

※余談ですが、これを書いている杉山は、はき違えて10年の歳月を無駄にしました。
杉山の過去の体験談(中盤)

 

 

そして、何もせずに、自分の世界を語るだけの評論家で終らないために、
他人にも見える世界(物質的な世界)でも手を動かし続けることが必要です。

 

例えるなら、スピリチュアルや宗教を熱心にやっているのに、
実際の生活を豊かにすることが出来ない人にありがちなのですが、

「内面が大事だ!自分の世界は大事だ!」

などと言って、変な人になったり、
何もしなくなってしまうのは筋違いのようなものです。

 

身体をゆるめ、肩の力を抜くのも努力のうち

 

もっとわかりやすく、よく例えるならば、
車とドライバーに例えるとわかりやすいのですが、

 

車のマシンを(外の世界、物質)

 

ドライバーを(自分の心、マインド)

 

優秀な能力や、膨大な富、地位(ポジション)を構築した状態
車に当てはめたら、フェラーリやランボルギーニみたいなものです。

 

そして大衆は、外観しか見てくれず、どんな人が運転しているのか?
ドライバーのことを見ようとする人なんて少数です。

 

それでもドライバーが未熟であれば、
すぐに調子こいて、大事故を起こしたり、人をハネてしまいますよね。

 

だから、ドライバーもきちんと、交通ルールを学んだり、
きちんとハンドルを操れるできるようにマインドセットを積み上げることが
重要になってきます。

 

 

でも、ずっとスピリチュアルや宗教を学んで何もしなくなるのは、
それはまるで車を運転しないようなものです。

 

何十冊、本を読んで学んでも、実際に車を運転してみなければ、
いっこうに目的地にたどり着くことはありません

 

 

教習所のように、ある程度、学習をして、
実際に車を運転してみる。というのが理想です。

 

もちろん、最初からガチガチに身体を固くして、
アクセル全開にする必要も無いのです。

 

今回もここまでお読みくださり
ありがとうございました。

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